[]『医龍』で原発議論を考えてみる。
Twitterを見ていると、福島原発の爆発事故以降、原発利用の是非を巡る議論が熱を帯びてきているようだ。この状況で議論が高まらなかったらそれこそ異常なので、議論そのものは歓迎するべきだろう。
が、どうも「原発撤廃論者」と「原発推進論者」に二元論的に分けてものを考えようとするひとが散見されて、ぼくなどは違和感を持つ。
いずれにしろ原始時代に戻ることはできないし、また、現状をひたすらに追認することも論外である以上、どこでどう妥協し、折り合いを付けるか、という問題なのでしかありえないのではないか、と思うのだ。
と、Twitterでそのようなことを書いたら、LDさんからリプライをいただいた。
理想に対して妥協無く組まれた理論は、根底が崩せなければ、大抵、辻褄があって枝葉末節にも隙がないんですよね。対して折り合いをつける理論は往々にして矛盾に満ちてツッコミ所も多くなりますよね。
『医龍』で凡人に優しい軍司と、徹底して能力主義の国立は分かりやすかったのに対して、加藤さんは何をしたいのかよく分からなかったですよね。あれは“中庸”って呼ばれるものですけど、矛盾も沢山抱えて、ああ言うのは、なかなか力を持つのは難しいですよね。
なるほど。『医龍』にたとえるとわかりやすいなあ。
読んでいないひとのために説明しておくと、『医龍』は加藤、国立、霧島という三者の医者が教授の椅子を巡って争う物語である。作中でアメリカ帰りの国立は欧米流の実力主義を標榜し、霧島はその反対に「能力のない凡人でも安心して働ける医局」を構想する。
このふたりに対して、加藤は両者の良いところを取った中庸路線を提唱するのだが、最も正当で現実的であるはずの彼女の思想はなかなか支持を得られない。あまりにまともすぎて、ひとを惹きつけるインパクトを欠いているのだ。
長年医局を支配してきた「妖怪」野口教授は、そんな彼女に向かって「敵」を作り、その「敵」を攻撃することによって集団をまとめるべきだ、と助言するのだが……。
この『医龍』の物語は何か意見を提唱する際、どのようにすれば良いのかという示唆に富んでいる。やはり中庸ではダメなのだな。極論を提示するほうがひとを集められるのだ。もちろん極論は現実的ではないから、ツッコミを受ける。敵を作る。しかし、皮肉な話だが、その敵の存在こそが意見集団を結束させることになる。
この場合、たとえば「この期に及んで原発を維持しようとする連中は腐敗している!」と決めつけ、仮想的な敵を作ったりすると、ひとを結集させることができるのかもしれない。
そういった極論を推し進め、対立する理屈と一切妥協しようとしない姿勢は、原発推進派であれ、撤廃派であれ、原理主義(ファンダメンタリズム)というべきだろう、とぼくなどは思うのだが。
原理主義者はいう。自分の敵対者(あるいは「抵抗勢力」)は悪だ。したがって、そういう連中と妥協することそのものが悪であり、非情であり、腐敗である、と。
このような非妥協的、理想追求的な姿勢に対し、どこまでも政治的、現実的にものを考え、実行しようとする中庸派は、両派にとってどっちつかずのコウモリのように見えるのかもしれない。
「白」と「黒」が雌雄を決しようとハルマゲドンを繰り広げるとき、「灰色」の人間はその両者から排撃される。しかし、灰色の理屈こそがいちばん現実に即しているし、結局は灰色に落ち着くと思うのだ。
原理主義はたしかに純粋で美しい。しかし、どこまでもそれを推し進めようとするとき、何かしら犠牲を生む。理想をそのままに地上に顕現させようとすることは、現実を無視することに他ならないからだ。理想の火を灯し、現実の道を歩む。それがベターではないだろうか。ベストではないとしても、である。
それにしても、今回の事故と『医龍』を重ねあわせてみると、霧島の「凡人医師に優しい医局」という発想の恐ろしさがわかる。「凡人に優しい東電」などというものは、まさに悪夢の産物ではないか……。
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