[]同人誌第二弾『戦場感覚』販売告知。




それは、北極星をめざす旅。


 本文は長すぎてだれも読まない気がしてきたので、冒頭に要点をまとめておくことにします。


1.夏コミにて同人誌『戦場感覚』を販売します。8月14日(日)東地区P-26 サークル敷居亭のスペースをお借りして売るつもりです。

2.サイズはA5。文章量は原稿用紙400枚強。価格はコミケ1000円、通販1300円です。

3.内容的に前作『BREAK/THROUGH』を超えることをめざしました。前作が複数のテーマを並列的に並べた「短編集」なら、今回は「長編」です。膨大な量の小説、漫画、アニメ、楽曲などを引用しながらひとつのテーマを追いかけています。

4.サンプル部分をそれぞれテキストファイル、PDF、epubのかたちで保存したものを公開しました。ダウンロードしてお好きな形式でお読みください。

http://dl.dropbox.com/u/12044930/sample..zip

5.『戦場感覚』の通信販売を開始いたします。ご購入意思がある方は以下のフォームに必要事項を記入して送信してください。折り返し返信いたします。代金は送料込み1300円、発送時期は8月11日から12日ごろになると思います。

http://my.formman.com/form/pc/ahCzZWfggUBoRW51/

 ついでに(いまさら売れないかもしれませんが)前作『BREAK/THROUGH』の通販も始めます。『戦場感覚』と『BREAK/THROUGH』の両方がほしいという方は、それぞれのフォームに個別に情報を記入して送信してください。

http://my.formman.com/form/pc/cWm1Ro0AGDHLfpfn/

 今回は調子にのって大量に刷ってしまったので、売れないと死にます。少なくとも前回と同程度は売れてほしいです。おねがいだから買ってください。

 なお、前回通販注文された方は今回も優先的に通販を受け付けます。近日中に個別にメールをさしあげますのでお待ちを。


■お知らせと目次■


 そういうわけで――といっても、何がそういうわけなのかわからないかもしれませんが――今年も夏のコミックマーケットにおいて新刊を発売いたします。前々から告知していたとおり、タイトルは『戦場感覚 ポラリスの銀河ステーション』となります。

 前回に続いてサークルスペースは落選したので(なぜだ!)、今回も敷居さんのところに委託させていただくことにしたいと考えています。


8月14日(日)東地区P-26a

 ぼくは当日、このスペースにいます。ぜひ遊びに来てください。今回もコミケのみ配布のおまけディスクを作ろうかとか考えていますが――疲れ果てたので作らないかもしれません(笑)。

 いや、今回はほんとに疲れた。疲れたんだよ、パトラッシュ。本来、ぼくは前回ですべてを出し切ってしまうつもりでした。つまりまあ、真っ白な灰になって終わりたかった。

 しかし、前作『BREAK/THROUGH』を書き終わったとき、ぼくのなかではまだ燃えのこっているものがありました。まだ書けるな、と思わざるをえなかったのです。

 その直後は当然、一冊の本にするほどのアイディアはのこっていなかったのですが、それから半年が過ぎるうちに、いろいろなものが自分のなかにたまり、ふたたび新刊を出すよう促しはじめました。しかし――ああ、しかし、そこからが大変だった。

 前回の目標は「Something Orangeを超えること」でした。一冊の本として上梓する以上、ふだん「Something Orange」に書いている内容を遥かに上回る密度とテンションを実現させることが、前作を書くうえでの最低限の目標として浮かび上がってきたのです。

 そして、前作はそれを達成できたと思っています。あきらかに『BREAK/THROUGH』は「Something Orange」よりおもしろいし、また濃密だといまでも思っています。しかし、今回は二冊目です。前回と同じ程度のものなら、作る意味がありません。

 いや、アベレージを稼ぎながら何冊も本を出しつづけるひともいますが、ぼくはそういうタイプではない。やるからには、前作『BREAK/THROUGH』を超えるものでなければ意味がない、初めからそう思っていました。これはひとの評価は関係ありません。自分のなかで、たしかに前作を超えたと思えれば、それで良いのです。

 ところが、じっさいに書きはじめてみると、この前作を超えるということが意外にむずかしいことがわかってきました。そもそもぼくは前作の時点ですべてを出し切ることを目標においていたのです。つまり、前作にはほぼぼくのすべてがあるということになります。

 それからたった半年で、その「すべて」をさらに超克する。考えてみれば、無茶としかいいようがない話でした。とはいえ、前作の二番煎じのような本を出しても意味がない。だれよりもぼく自身が納得できない。そこで生まれてきたテーマが「戦場感覚」でした。

 これはぼく自身が抱えている想いを言葉にしたものですが、いつも戦場に生きているということの感覚です。これはむろん銃弾が飛びかうじっさいの戦場を意味しているわけではありません。ただ生きるということ、それだけが「たたかい」なのだといいたいのです。

 詳細は同人誌に譲りますが、今回はこのアイディアを中核に置くことにしました。戦場感覚――この言葉が浮かんだのと並行して、内容はどんどん決まっていきました。それは前回の段階で構想していたものとはまったくべつの内容でしたが、ぼくにはあきらかにその構想より魅力的なものに思えました。

 前作が、ぼくがおもしろいと思うテーマを適当に並べたいわば「短篇集」だったとするならば、今回は「戦場感覚」という概念で一本通した、まさに「長編」です。長編ならば短編集を超えられるのではないか――ぼくはそんなふうに考えました。

 このもくろみは、おおむね成功したと思っています。今回も前回と同じく最終章でテンションがクライマックスにいたるよう計算して書かれているのですが、そのピークは前作のピークよりさらに高いものに仕上がっているといえるでしょう。つまり、最終到達点が更新されているのです。

 前作と今作、いずれがおもしろく印象にのこるかは、それはまあ、個人の価値しだいではあるでしょうが、少なくともぼくにとっては、前作以上に思い入れ深い一冊に仕上がったと思っています。

 今回は本当に真っ白な灰になりました。ここにすべてを蕩尽したので、もう何もアイディアはのこっていません。これを超えることはもうさすがに無理です。少なくともあと一年はチャレンジする気になれない。それくらいぼくにとっては自分のすべてを置いてきた本だといえます。

 ちなみに前作のとき、ラジオなどで聞いた話ばっかりといわれたことを根に持って、今回は意図的に情報をセーブしました。したがって、「Something Orange」などで見たような内容はほとんどないはずです。新鮮な感触を得られると思います。

 本のサイズはA5でページ数は144枚。前作と完全に同じサイズ、同じ厚さとなっています。その意味でも、これは前作と対になる一冊といってもいいでしょう。もちろん、内容は完全に独立していて、前作とは一切関係ありませんが、前作とあわせて読んでいただけるとよりおもしろいのではないかと考えます。

 前作も刷りなおしましたので、近々再販します。前回入手しそこねた方はあらためて入手されて読まれてみると楽しいかな、と。

 ちなみに今回はゲスト原稿はほとんどありません。レスター伯による「解説」を除くと、原稿用紙400枚強、すべてぼくが書きました。それも執筆が難航した原因のひとつかもしれません。まあ、量が多すぎた。個人的にはそれくらいの分量がないと読みごたえがないと思うんですけどね。「長編」だし。

 価格は前作同様、コミケ価格1000円。通販価格1300円です。とにかく、ぼくにとっては「一応はこれで死ねるな」と思うくらい全力投球の一冊になっています。そのため、決して気楽に読み捨てられる本当はいえないかもしれません。しかし、熱量には自信をもっています。熱いよ。夏なのに。


序幕「発端」

第一部「α」

第一幕「エスカレーション」

始発駅「アルデバラン――戦場感覚」
第二駅「ベテルギウス――レジスタンス」
第三駅「プロキオン――ただ一本の「道」」
第四駅「ヒアデス――穴のあいたパラシュート」

第二部「Ω」

第二幕「殺人事件」

第五駅「リゲル――ハートカットガールズ」
第六駅「カストル――ひとでなしとひとと」
第七駅「ポルックス――タナトスのエロス」
第八駅「プロキオン――遙かなる中原へ」
第九駅「カペラ――あいのうた」

第三部「αでありΩ」

第三幕「言葉、言葉、言葉」

第十駅「カノープス――メメント・モリ 花のテーマ」
第十一駅「プレアデス――修羅の生命螺旋」
第十二駅「シリウス――星は生きている」
終着駅「ポラリス――ポラリスの銀河ステーション」

終幕「きみにささげる花束」


■各章内容解説■


序幕〜終幕


「ああ、海燕さん、最近大変みたいですね」
 開口一番、ペトロニウスさんはそういってくれた。いつものことだが、このひとの声には何かひとを安心させるようなものがある。決して穏やかなだけの人柄ではないはずだが、それでも何かひとをほっと安堵させるようなふしぎな「力」があるのだ。ぼくはそういってもらったことで、自分がどれだけ消耗していたのか、初めて気づいたくらいだった。

 前回に続いて評論と並べて小説が掲載されます。今回は落ち目のもと人気ブロガー「海燕」を主人公にした私小説ふうの作品になっています。「Something Orange」をお読みの方にはおなじみの(?)かんでさん、ペトロニウスさん、敷居さんなどが登場します。このうちひとりは死にます(笑)。いろいろと洒落にならない話であるかもしれません。

始発駅「アルデバラン――戦場感覚」


 わたしたちは戦場を生きている。銃弾が飛びかい疫病がはやる最前線で、血をながし泥をすすり戦いつづけている。過酷な日々に心は乱れ、肉体は病む。魂は嗚咽し、神経は狂う。それでも逃亡は許されない。そもそも逃げる場所などない。その戦場は現代社会といい、わたしたちはひとりのこらずそこに住んでいるのだから。

 「戦場感覚」に対する解説を開始する第一章です。ちなみにこの本では、各章は「駅」と題され、星の名前が付いています。各地の銀河ステーションをおとないながら、広漠たる大宇宙を旅していくイメージです。終着駅は「ポラリスの銀河ステーション」。これはあるたましいの銀河旅行の物語なのです。



リバーズ・エッジ (Wonderland comics)

リバーズ・エッジ (Wonderland comics)



人魚姫

人魚姫

第二駅「ベテルギウス――レジスタンス」


 かれらが考える「悪いこと」とは「教室内での「身分」をわきまえないこと」であり、それに比べれば殺人ですら決して「悪」とはいえないのである。このようなある集団での支配的な価値を、わたしは「覇権価値」と呼ぶ。ひとりひとりのいじめ加害者は、実は教室空間の覇権価値である空気至上主義の奴隷であるに過ぎない。

 「いじめ」や「差別」をテーマに、ひとをそういった悪に加担させるものについて考察しています。ひとを悪へと導くもの――それは「蛇」と「システム」。ひとは内なる蛇に誘惑され、外なるシステムに操られて悪を犯す。それでは、どうやってそれに対抗するのか、というおはなし。



高杉さん家のおべんとう 1

高杉さん家のおべんとう 1



3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)

第三駅「プロキオン――ただ一本の「道」」


 そう、おそらくは「少年」の生き方を最もよく表す言葉は、「道」である。地平線の果てまで続く、ただ一本の「道」。「少年」は果てしなくその道を歩みつづける。それが、それだけが、かれの生き方なのだ。

 「少年の夢」の話。「少年の夢」というテーマは前作でも扱いました。今回はそれをふたたび取り上げています。これが唯一、前作からひき継いだテーマです。というのも、前作を書き終えたあと、何か書き足りないという印象があったのです。もちろん、前作とはべつの角度から題材を切り取っています。



燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)

燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)



どんちゃんがきゅ~

どんちゃんがきゅ~

第四駅「ヒアデス――穴のあいたパラシュート」


 「愛」は誘惑する。わたしを手にいれれば、お前の苦しみは終わるのだ、と。わたしはすべてを持っている。それを何もかもお前に与えよう、と。しかし、わたしたちは「愛」とは壊れたものであることをしってしまった。もはや無邪気に「愛」を礼賛することはできない。

 第三章のテーマが「少年」ということで、第四章のテーマは自然、「少女」に決まりました。少女といえば少女漫画、ということで、この第四章ではさまざまな少女漫画について語り倒しています。さらに桜庭一樹なんかについても語っています。何しろぼくは男なのでっわからないところも多いと想いますが、精一杯がんばりました。



NATURAL (第1巻) (白泉社文庫)

NATURAL (第1巻) (白泉社文庫)



残酷な神が支配する (1) (小学館文庫)

残酷な神が支配する (1) (小学館文庫)

第五駅「リゲル――ハートカットガールズ」


 家族が寝しずまった頃、ひとりしずかにベッドから起きあがると、机の奥にしまった使い捨てメスを取り出し、そっと、肌のうえを滑らせる。既に何本もの線がはしる肌のうえに、また一本、赤い筋が出来あがる。まるで他人の肌であるように、痛みはほとんどない。それは「乖離」と呼ばれる現象であると、何かの本で読んだ。

 第五章のテーマはリストカットを初めとする「自傷行為」です。自らおのれのからだを切り刻み、傷めつけるというこのなぞの行為に、ぼくは「戦場感覚」を見て取りました。この平和な平穏な世界にあって、修羅の葛藤を生きる少女たち。ぼくは彼女たちを「ハートカットガールズ」と呼びます。



Raining

Raining



卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

第六駅「カストル――ひとでなしとひとと」


 かれはこの世界は流刑地であるといってはばからなかった。ほんとうにあるべき「真世界」を離れ、なぜともしれず誤って生まれてしまった流刑の地。そこで生きていかなければならないという絶望。

 戦場感覚は、自然、「ひとでなし」というイメージを呼び寄せます。乙一シオドア・スタージョン江戸川乱歩中井英夫といった作家たちの作品を取り上げています。また、有川浩のことを少しばかり批判的に語ってもいます。有川浩は「ひと」の作家であり、「ひとでなし」の文学とは相容れないと思うのです。



失踪HOLIDAY (角川スニーカー文庫)

失踪HOLIDAY (角川スニーカー文庫)



新装版 虚無への供物(上) (講談社文庫)

新装版 虚無への供物(上) (講談社文庫)

第七駅「ポルックス――タナトスのエロス」


 それでは、そのゴスが戦場感覚とどのようにかかわるのか。いうまでもない。戦場と死は兄弟の関係にあるのだから、戦場感覚とゴスもまたきわめて近しい間柄といえる。わたしは、戦場感覚者のグランドテーマとは「戦場である世界でいかに生き抜くか」であると書いた。しかし、「世界は戦場である」というグランドルールからは、自然、負けても良い、死んでもかまわないというもうひとつの価値も導きだされるはずである。

 折り返しの第七章。この章では、一時期はまっていた「ゴシック」について語っています。ゴシックミステリやテクノゴシック、ゴスの沃野は広漠無辺なのですが、一章で語れるかぎりのことを語りました。知識不足から人形愛について語れなかったことは残念です。まあ、仕方ないけれど。



黒死館殺人事件 (河出文庫)

黒死館殺人事件 (河出文庫)



攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

攻殻機動隊 (1) KCデラックス

第八駅「プロキオン――遙かなる中原へ」


 そして、いつ果てるともなく続く、孤独な戦い――それは、「不信」という病をともなっている。ひとが信じられなくなるという、病。それはあまりにも当然のことだ。なぜなら、たやすくひとを信じれば、いつ裏切られるともわからぬのだから。そうして、裏切られたら最後、待つものは死だ。だから、ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、物語が進むにつれ、ひとを信じることができなくなっていたのだ。

 前作に続いて、作家栗本薫を取り上げています。ただし、前作が『グイン・サーガ』の一登場人物に焦点を絞ったのに対し、今回は栗本薫の作品世界全体を取り上げるものになっています。栗本こそは戦場感覚の作家です。彼女の全作品、ボーイズ・ラブからヒロイック・ファンタジーにまで共通する要素が戦場感覚なのです。



十六歳の肖像―グイン・サーガ外伝(7) (ハヤカワ文庫JA)

十六歳の肖像―グイン・サーガ外伝(7) (ハヤカワ文庫JA)


第九駅「カペラ――あいのうた」


 あなたはかけがえがない。わたしもまた、かけがえがない。世界はかけがえのない音で満たされた、二度とは再演されない音楽である。わたしはそんな世界を、わたし自身を愛する。

 第二部を締めくくる第九章のテーマは「愛」です。この世に無償の愛、無条件の愛というものが存在しえるのか。存在しえるのだとすれば、それはどのようなかたちを採るのか。そんな内容となっています。気恥ずかしいような話ですが、おもしろいのではないかと。そして本書は怒涛の第三部に突入します。



さぶ (新潮文庫)

さぶ (新潮文庫)


第十駅「カノープス――メメント・モリ 花のテーマ」


 栗本薫ボーイズラブ作品におけるレイプ描写が趣味的なものではありえないように、虚淵の少女に対する加虐描写も単に趣味的なものではない。それはこの世の真実を描き出している。

 第三部開始。この第三部はひとつづきの話となっています。つまり、この第十章から第十三章まではほんとうはひとつの章なのです。この章では『魔法少女まどか☆マギカ』などを取り上げながら、テンションを上げていっています。ほんとうは奈須きのこ虚淵玄で一章を割く予定もあったのですが、結果的にはそうはなりませんでした。



ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)

ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)



魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray]

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第十一駅「プレアデス――修羅の生命螺旋」


 おとぎ話のハッピーエンドはいつもこのように語られる。「そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました」。この「いつまでも続く」ということこそ、「幸せ」の理想であるといえるだろう。だが、それを「幸福」と呼ぶならば、「いまある状態からさらに高くまで駆け上がりたい」という想いを何と呼ぶべきなのか。

 『AIR』のことなどを語っている章です。この章の役割は、続く十二章、十三章への橋渡しといっていいでしょう。このあたりからいよいよテンションは上がりはじめ、読むほうもおそらく何かしらのドライブ感をもって読めると想います。いよいよクライマックスなのです。



ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」

ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」



祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)

第十二駅「シリウス――星は生きている」


 わたしたちは、すべてのことに慣れ、何もかもあたりまえだと思ってしまっている。りんごの木にりんごの花が咲く? なんだ、あたりまえじゃないか、というふうに。しかし、わたしたちが幼い頃、それは決してあたりまえなどではなかったはずである。それはまさに驚異の事実であったはずなのだ。

 十三の駅を経巡る「銀河鉄道の旅」も、ついにシリウスまでたどり着きます。この章で語られているものはチェスタトンの「正統」の思想です。ほんとうはこの章を最終にもってくる予定だったのですが、そこからさらなる高みをめざすために、十三章構成ということになりました。が、この章のテンションも高いと思います。




正統とは何か

正統とは何か

終着駅「ポラリス――ポラリスの銀河ステーション」


 そうして、どれくらい時間が経ったことだろう。周囲を見まわせば、いつのまにか金いろ銀いろの雪がはらはらと降りしきり、降り積もっている。どこからか銀河ステーション、銀河ステーションと告げる声が聴こえる。ああ、いつのまにかずいぶん遠いところまで来てしまった。ふりかえってみれば、ほら、地球があんなに小さい。そうか、いよいよ空へ還るときが来たのだ。さようなら。さようなら。さようなら。わたしはついに「わたし」から解放される。

 そうして、旅の終着点、「ポラリスの銀河ステーション」です。北極星をめざす旅は、ここで終わることになります。北極星とは何の象徴なのか? それはお読みいただければわかることと思いますが、まあ、この旅そのものがひとの人生の暗喩といっていいでしょう。作中のテンションはついに最高潮に達し、そして潮がひくようにしずまっていきます。



春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ)

春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ)



新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)


■一問一答■



Q1 批評されている作品にかんするネタバレはありますか?

A1 一部の作品にはネタバレがあります。しかし、今回はそれほど心配しなくてもいいのではないでしょうか。前回の『グイン・サーガ』や『猫物語』に対する全面的なネタバレのようなものは、今回はないと思います。たぶん。きっと。


Q2 通信販売の予定はありますか?

A2 あります。今回はコミックマーケットよりも早く通信販売を始める予定です。通販で買っていただくと、コミケに来るよりも早く本を入手できる理屈になります。といっても、タイムラグは数日程度でしょうし、コミケで買うほうが安く簡単ではあります。


Q3 電子書籍化の予定はありますか?

A3 一応はあります。が、しばらく時間はかかると思います。また、要望がないようだったらやらないかもしれません。


■サンプル■


 本編第一章をサンプルとして公開します。

 始発駅「アルデバラン――戦場感覚」

 0.出発。

 甲高く汽笛が鳴り、車掌がゆっくりと手をふると、星の平原を往く黒い列車は、颯爽と走りはじめる。

 銀河列車、出発進行。

 1.戦場感覚とは何か。

 わたしたちは戦場を生きている。銃弾が飛びかい疫病がはやる最前線で、血をながし泥をすすり戦いつづけている。過酷な日々に心は乱れ、肉体は病む。魂は嗚咽し、神経は狂う。それでも逃亡は許されない。そもそも逃げる場所などない。その戦場は現代社会といい、わたしたちはひとりのこらずそこに住んでいるのだから。

 いまから「戦場感覚」の話をしよう。戦場感覚。それは文字通り、自分は戦場に生きているという感覚である。まどろみに似た平和が続くわが国だが、ある種の人々はこの感覚をもって暮らしている。むろん、それは本物の兵士の感覚とは異なるだろう。しかし、世界をひとつの戦場と考え、人生を不断の闘争と捉えるなら、どれほど平穏な時代にも戦場感覚の持ち主がいて当然ではないだろうか。いまこうしているあいだにも、世界各地では無数の「戦い」が続いている。軍隊による戦闘行為ではない。もっと象徴的な意味での「戦い」。本書全編を通じ、わたしはその意味での「戦い」について語るつもりである。どうか飛ばさず読みすすめていただきたい。

 さて、本書の内容はすべて上記の「現代社会は戦場である」という事実から演繹されている。事実。そう、わたしにとってこの一文は動かしがたい事実である。あるいは、こう書けば、あなたは失笑していうかもしれぬ。戦場だと。現代ほど恵まれた時代がないことを知らないのか、きみの戦場はひとりも死者を出さないらしいな、と。わたしは答える。死者ならいる。およそ年間三万人も、と。この数字は日本の年間自殺者数である。わたしたちの戦場では、兵士は自ら頭を撃つ。そこでは敵味方の区別が定かではないから、最後には自分を撃ちぬくほかなくなるのだ。わたしたちは自分殺しの戦場を生きている。

 ただ、早合点しないでほしい。わたしは日本の自殺率の高さ(2010年時点で世界第6位)そのものを問題にしたいわけではないし、政治や経済の問題について語りたいわけでもない。わたしがいまから語ろうとしていることは、必ずしも現代特有の問題ではない。いまより花やかに見える80年代、90年代も、社会はやはり戦場であった。より正確にいえば、社会を戦場と感じる人々は存在した。かれらは自分が戦場の住人だと「知っている」。知識ではなく、実感で理解している。それが戦場感覚である。

 あなたはこの感覚を理解できるだろうか。何か大げさなことをいっているとしか思われない方が大半かもしれない。それでは、あなたは生きていることが辛いと感じたことはないだろうか。特に理由もなく、ただ何となく苦しく、いたたまれなく、消えてしまいたいと思ったことは。もしあるのなら、あなたは戦場感覚を推測できる。戦場感覚とは、つまり日常的にその種の苦悶と戦っている感覚である。

 戦場感覚者にとって、世界は楽園ではない。むしろそれは困難にみちた荒野である。かれは楽園を否定しないが、自分自身はどうしようもなくそこから疎外されていると感じている。戦場感覚者とは楽園のアウトサイダーなのだ。

 「アウトサイダー」。それはコリン・ウィルソンの著書のタイトルだ。ウィルソンはその本で、サルトルカミュ、ロレンス、ゴッホニジンスキードストエフスキー、ブレイク、グルジェフといった人々を「アウトサイダー」として並べあげた。この世界の倫理や常識の外側(アウトサイド)にいる人々、というほどの意味である。そして、ウィルソンは、かれらアウトサイダーは何億という「インサイダー」たちよりはるかに優れた人種なのだと力説した。インサイダーがのんきに眠りこけているとすれば、アウトサイダーはまさに覚醒しているのだと。

 ウィルソンのアウトサイダーとわたしがいう戦場感覚者には共通項も多い。しかし、根本的なところが違っている。アウトサイダーが多く孤高の天才であるのに対し、戦場感覚者はときに強い劣等感、自己否定感を抱えているという点である。なぜなら、かれは世間の人々があたりまえにこなすことがどうしてもできないからだ。たとえば戦場感覚者はときに部屋から一歩外へ出るだけのことにも深刻な恐怖を感じる。いうまでもない、そこが戦場だからだ。戦場感覚者にとっては、時にただあたりまえの日常を生きるだけのことも「戦い」なのだ。

 もっとも、必ずしも戦場感覚者がわかりやすい被害体験を抱えているとは限らない。何か明確なスティグマを抱えているものもいるだろうが、そうでないものもいる。そして、何の被害体験もなくても、深刻な「生きづらさ」と戦っているものはみな戦場感覚者である。そういったものにとっては、たとえば教室に一歩足を踏みいれることがひとつの「戦い」なのだ。戦場感覚者にとって世界は戦場であり、生きることは戦いである。わたしは戦場感覚の根底をなすこの事実を、すべてのルールの大元にあるルールという意味で「グランドルール」と呼ぶことにしたい。

 戦場感覚者にとって、グランドルールは世界の最も根本的な理である。グランドルールを骨身にしみて認識するところから、戦場感覚者の人生は始まる。そしてまた、グランドルールからは必然的にひとつのテーマが導きだされる。即ち、「戦場である世界をどう生き抜くか」。これを、戦場感覚者にとっての究極のテーマという意味で「グランドテーマ」と呼ぼう。戦場感覚的な物語は、自然、このグランドテーマに沿ったものとなる。

 本書では乙一栗本薫桜庭一樹虚淵玄といった作家たちの戦場感覚的作品を取り扱う。かれらの作品は、その苛烈さ、容赦のなさが共通している。しかし、それは決して趣味的なものではなく、かれらの戦場感覚から導きだされた必然なのである。かつて岡崎京子は著書『リバース・エッジ』に一篇の詩を付した。ウィリアム・ギブスン「平坦な戦場で僕らが生き延びること」。本書もまた「平坦な戦場で生き延びること」を巡る本だ。願わくは、本書がひとりでも多くの戦場感覚者の友とならんことを。

 2.コギト。

 しかし、そう、先走りすぎたかもしれない。まずは何をいっているのかわからないというあなたのために、レッスン1を開始しよう。まず、「あなたに見えている世界はあなただけのものである」と納得してもらいたい。

 簡単な話だ。わたしたちは同じものを見るときも、ひとりひとり異なる主観を通しそれを見ているということ。たとえば同じりんごを見るときも、異なる観点で見ているはずである。極論するならわたしたちはそれぞれべつのりんごを見ているといえる。その意味で、わたしたちは孤独だ。どんなに大勢の仲間といるときもひとり。なぜなら、自分に見えている世界を分けあうことはできないのだから。愛する恋人が何を考え、何を想っているのか、その本当のところは一生わからない。コギト・エルゴ・スム。わたしたちは絶対孤独という牢獄の囚人である。

 もうすこしわかりやすい話をしよう。トロンプ・ルイユ(だまし絵)と呼ばれる絵画技法がある。ある一枚の絵が、見方により異なる絵柄に見えてくるというものだ。それはひとの主観の奇妙を思い知らせてくれる。ある部分を背景として見たときと、人物として見たときでは全く違うものが見えてくるふしぎ。このふしぎが世界そのものにもあてはまる。世界とはひとつのだまし絵なのだ。ふだんはなかなかそうとは知れないものの、わたしたちの主観は百人百様である。客体はひとつ。しかし、ひとはそこに主観的な「感想」を上書きする。熱烈な信仰者の目に壁のしみが聖者の顔に見えたりすることはその典型であろう。

 そう考えると、ひとによってある物語の見え方が違ってくることは必然である。わたしたちが小説や映画で物語を楽しむとき、当然、それぞれ異なる感想が生まれる。しかし、一方でその作品は感想がひとつにまとまるよう計算されており、自然、メジャーな感想とマイナーな感想というものが生まれる。たとえば、人魚姫が泡になり消えていく場面の感想は「人魚姫が可哀想」というものが大方を占めるであろう。しかしまた、「人魚姫の生き方は美しい」という感想もありえる。前者は憐憫、後者は讃嘆である。

 前者の見方を採る人物にとって、人魚姫の物語はあくまでも悲劇と映る。後者の見方を採る人物にとっては必ずしもそうではない。かれは、たしかに人魚姫は泡になり消えたが、恋に殉じたその生き方は素晴らしい、と捉える。その意味でこの物語は必ずしも悲劇はいえぬ、と。ここには思想の差異がある。前者にあるものは不幸を哀れむ思想であり、後者は不幸と戦うことを称える思想である。前者は「結果」を見、後者は「過程」に注目する。わたしが本書で取りあげたいのは後者の思想だ。その「結果」がどうであるかではなく、そこにいたる「過程」をこそ問い、「戦うことそのもの」に価値を見出す思想。それは戦場感覚者の価値観である。そこには「戦うもの」に対するリスペクトがある。その思想においては、人魚姫は一方的な同情の対象ではない。同じ「戦い」を戦う同志である。彼女は敗れたかもしれぬ。しかし、その生涯そのものは崇高であった。戦場感覚者はそう考える。

 これは社会の結果主義と真っ向から対立する思想だ。現代社会において、わたした

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[]叩けば商品が出る無料自販機のように。




 先日の記事についたコメントです。


確かにあなたの文章はつまらなくなりました。
でも私にとってそれは内容の質が下がったというよりは、あなたの文章がどんどん内面的、自己陶酔的な内容になっていったからです。
私はあなたの書評が好きで、何年か前までは毎日見に来ていました。
書評を書く時のあなたの文章は、その作品の良さを伝えるために練り込まれたものと感じ、

読みたい、プレイしたいと思わせるものでした。
しかしいつからか、あなたの文章は自分の考えや自分自身を表現し、共感してほしい、わかってほしいと言わんばかりのものと感じられるようになりました。
あなたの苦悩は私には理解できず、
自分が悲劇の主人公である所以を滔々と語っているようにしか見えませんでした。
まるで「嘆くこと」が大好きな陶酔型ニヒリストのように。
「この世には価値のあるものなどない」といいながら、
「じゃあ死のう」「じゃあせいぜい楽しもう」「もっと別の考えを探そう」
となるわけでもなく、ただ「この世は〜闇だ〜意味がない〜」と言い続けるような無意味さを感じるようになりました。

私には「生きづらさ」という感覚を理解したことがないのでこのような感想となりましたが、
本気で書いていることを自己陶酔だの言われて不愉快だ、などと感じられましたらお詫びします。

 うーんと、これは文字通りただの「感想」ですよね。あなたがそう感じたというだけの話なので、ぼくとしては何ともいいようがありません。

 まず、ぼくは「この世に価値のあるものなどない」なんて言っていません。あなたが誤解されたのはたぶんこの箇所でしょう。


 まあ、ぼくも大概、ペシミスティックな人間かもしれません。富も栄光も、愛情も、何も信じられない。金メダルも世界チャンピオンも、絶対的な価値があるとは思われない。しょせんみな百年も経てば忘れ去られることではないか――。

 ぼくは「絶対的な価値」がない、といっているのであって、価値そのものがないとはいっていない。この差がおわかりでしょうか?

 こういうコメントを見るたびに思うんだけれど、コピー&ペーストを使って正確に引用することもできるのに、どうしてひとの主張をかってにパラフレーズしてしまうんでしょうね。次からはやめていただけるとありがたいです。

 「ただ「この世は〜闇だ〜意味がない〜」と言い続けるような無意味さを感じるようになりました」とありますが(これがコピペ)、ぼくはそんなことを「言い続け」ていないので、あなたが感じただけということになります。もちろん、なんであれ感じるのは自由ですが、それをぼくにいわれても困る。

 「しかしいつからか、あなたの文章は自分の考えや自分自身を表現し、共感してほしい、わかってほしいと言わんばかりのものと感じられるようになりました」。書いてもいないことを「感じ」られてもなあ、としかいいようがありません。

 「あなたの苦悩は私には理解できず、自分が悲劇の主人公である所以を滔々と語っているようにしか見えませんでした」。あなたにはそう見えるのでしょうが、あなた以外のひとには違うものが見えるかもしれないのだから、これもまた何ともいいようがありません。

 まあ、「感想」なんだから客観的論証に欠けることは仕方ないとしましょう。しかし、可能なら客観的に話し合える内容を書いてもらいたいものです。そういう意見であればいくらでも受け付けますから。ぼくは無理をいっていますか?

 ちなみに、ぼくはこの世はむなしい、だから何もしなくても良いのだ、といっているのではなく、この世はむなしいからこそ、その虚無にすべてをささげるしかないのだ、という意味のことをいっているのですが、おわかりいただけないでしょうね。もっと噛み砕いてわかりやすく書くべきだったかもしれません。申し訳ありませんでした。

 あなたのコメントを読んでぐったりしてしまったのはぼくの責任なので、お気になさらないでください。これからは読者の皆さまに気に入っていただけるよう明るい書評記事でも書いていきたいと思います。そうすれば「「嘆くこと」が大好きな陶酔型ニヒリストのよう」なんていわれることもないでしょうし。

 でもパトラッシュ、ぼくは疲れたよ。

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 先日の記事についたコメントです。


確かにあなたの文章はつまらなくなりました。
でも私にとってそれは内容の質が下がったというよりは、あなたの文章がどんどん内面的、自己陶酔的な内容になっていったからです。
私はあなたの書評が好きで、何年か前までは毎日見に来ていました。
書評を書く時のあなたの文章は、その作品の良さを伝えるために練り込まれたものと感じ、

読みたい、プレイしたいと思わせるものでした。
しかしいつからか、あなたの文章は自分の考えや自分自身を表現し、共感してほしい、わかってほしいと言わんばかりのものと感じられるようになりました。
あなたの苦悩は私には理解できず、
自分が悲劇の主人公である所以を滔々と語っているようにしか見えませんでした。
まるで「嘆くこと」が大好きな陶酔型ニヒリストのように。
「この世には価値のあるものなどない」といいながら、
「じゃあ死のう」「じゃあせいぜい楽しもう」「もっと別の考えを探そう」
となるわけでもなく、ただ「この世は〜闇だ〜意味がない〜」と言い続けるような無意味さを感じるようになりました。

私には「生きづらさ」という感覚を理解したことがないのでこのような感想となりましたが、
本気で書いていることを自己陶酔だの言われて不愉快だ、などと感じられましたらお詫びします。

 うーんと、これは文字通りただの「感想」ですよね。あなたがそう感じたというだけの話なので、ぼくとしては何ともいいようがありません。

 まず、ぼくは「この世に価値のあるものなどない」なんて言っていません。あなたが誤解されたのはたぶんこの箇所でしょう。


 まあ、ぼくも大概、ペシミスティックな人間かもしれません。富も栄光も、愛情も、何も信じられない。金メダルも世界チャンピオンも、絶対的な価値があるとは思われない。しょせんみな百年も経てば忘れ去られることではないか――。

 ぼくは「絶対的な価値」がない、といっているのであって、価値そのものがないとはいっていない。この差がおわかりでしょうか?

 こういうコメントを見るたびに思うんだけれど、コピー&ペーストを使って正確に引用することもできるのに、どうしてひとの主張をかってにパラフレーズしてしまうんでしょうね。次からはやめていただけるとありがたいです。

 「ただ「この世は〜闇だ〜意味がない〜」と言い続けるような無意味さを感じるようになりました」とありますが(これがコピペ)、ぼくはそんなことを「言い続け」ていないので、あなたが感じただけということになります。もちろん、なんであれ感じるのは自由ですが、それをぼくにいわれても困る。

 「しかしいつからか、あなたの文章は自分の考えや自分自身を表現し、共感してほしい、わかってほしいと言わんばかりのものと感じられるようになりました」。書いてもいないことを「感じ」られてもなあ、としかいいようがありません。

 「あなたの苦悩は私には理解できず、自分が悲劇の主人公である所以を滔々と語っているようにしか見えませんでした」。あなたにはそう見えるのでしょうが、あなた以外のひとには違うものが見えるかもしれないのだから、これもまた何ともいいようがありません。

 まあ、「感想」なんだから客観的論証に欠けることは仕方ないとしましょう。しかし、可能なら客観的に話し合える内容を書いてもらいたいものです。そういう意見であればいくらでも受け付けますから。ぼくは無理をいっていますか?

 ちなみに、ぼくはこの世はむなしい、だから何もしなくても良いのだ、といっているのではなく、この世はむなしいからこそ、その虚無にすべてをささげるしかないのだ、という意味のことをいっているのですが、おわかりいただけないでしょうね。もっと噛み砕いてわかりやすく書くべきだったかもしれません。申し訳ありませんでした。

 あなたのコメントを読んでぐったりしてしまったのはぼくの責任なので、お気になさらないでください。これからは読者の皆さまに気に入っていただけるよう明るい書評記事でも書いていきたいと思います。そうすれば「「嘆くこと」が大好きな陶酔型ニヒリストのよう」なんていわれることもないでしょうし。

 でもパトラッシュ、ぼくは疲れたよ。