[]自分さらしの時代――プライバシー革命は起こるのか。




 今回はなんとなく売れ線新書ふうのタイトルにしてみました。いかがでしょう。ま、そういうわけで、今回はプライバシーを巡る話。

 ふと思い立って、先ほどフェイスブックに登録してみた。実に6億人(!)もの人が登録しているという世界最大のソーシャル・ネットワーキング・サービスである。まあ、mixiのワールドワイドバージョンみたいなものか、と思ったんだけれど、どうやらだいぶ内容が異なっているようで、おもしろさの質も違うようだ。

 最大の違いは本名での登録が推奨されているところだろう。リアルで接点がある人間とつながることが想定されているのである。というか、フェイスブックは「ネット」と「リアル」の境界を破壊しようとしているのかもしれない。

 「ネット」と「リアル」はしばしば対立軸として語られるが、あきらかにその古典的理解はもはや有効ではない。ぼくなど、ネットで知遇を得た人とはほとんどリアルでも逢っているし、また一般的にいっても、スマートフォンの登場はネットが生活の一部に入り込む時代をもたらしている。

 ぼくたちはいまあたりまえのようにTwitterで呟き、クックパッドでレシピを検索し、巨大なソーシャル・ネットワークに接続しながら生きている。

 ただ、フェイスブックが日本ではいまひとつ浸透していないことを見てもわかるとおり、日本ではまだ「ネットは匿名で使うもの」という意識が強いようだ。いわば日本ではまだネットとリアルが完全に融合するところまでは行っていないということか。

 ぼくにしても、ネットでは「海燕」を名乗り、リアルでは本名で行動している。ネットとリアルを接続していないのだ。べつだん、ネットに本名を公開してもかまわないのだが、そのことで得られるメリットがよくわからない。だから一応、いまのところはハンドルネームを使っている。すでに「海燕」という名前が浸透してしまったということもあるし。

 しかし、来たるべきSNS大全盛時代には、個人情報の公開度が高いほど得られるものも大きい、ということになるかもしれない。先日読みあげた『キュレーションの時代』では、アメリカのフォースクエアというサービスが紹介されていた。



キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

 これは自分の自分がそのときどの場所にいるかを「チェックイン」と呼ばれる方法でネットに公開し、共有するサービスであるらしい。これだけの説明だと何がおもしろいのかわからないが、つまり、自分の位置を知らせることでたとえば値引きなど、さまざまな便宜が受けられるらしいのである。これは完全にネットとリアルを接続することによって利益を得るシステムであるわけだ。

 何も公開しないで生きることもできる。が、人生全般にかかわる個人情報(「ソーシャルライフログ」)を広く公開すれば、それだけの利益が返ってくる。これからの時代はそういうサービスが増えていくのかもしれない。

 もちろん、『キュレーションの時代』でも書かれているように、これはなんともいえない「気持ち悪さ」を感じさせるサービスだ。自分がどこで何をしたかすべてだれともしれない人々に把握されているということは、あまり気分のいいものではない。ぼくたちのもつプライバシー意識に反するのである。

 フォースクエアの場合、自分がチェックインした情報だけが公開されるらしいので、そこまでの抵抗感はないかもしれないが、それでもどこかプライバシー意識に反するサービスであることはあきらかだろう。

 しかし、ここでもう少し考えてみよう。プライバシー意識に特化した精神をもつぼくたち現代人はライフログの公開に躊躇するが、これはべつに人間の本能でも何でもない。単なる学習の成果である。

 ということは、これから新たに生まれてくる世代は、ぼくたちのような過敏なプライバシー意識を持たないかもしれない。もちろん、全くプライバシーの概念が消え去るということはありえないが、たとえば自分の本名、位置情報、行動情報などをネットに流すことに、それほどの抵抗感をもたなくなるかもしれない、ともいえるのではないだろうか。

 ここでぼくは映画化もされて少々話題になった『サトラレ』という漫画を思い出す。ご存知の方も多いだろう。そのとき考えていることがそのまま外部へ伝わってしまう「サトラレ」と呼ばれる超能力者たちの物語だ。



サトラレ(1) (モーニングKC (739))

サトラレ(1) (モーニングKC (739))

 この作品のなかでは、サトラレたちは自分がサトラレであることを気づかないよう、国家によって保護されている。自分がサトラレであることをしれば耐えがたいほどのストレスとショックを受けるはずだからである。

 これはよく考えてみると結局、プライバシーを巡る物語である。つまり、自分の思考という「究極のプライバシー」を暴露されつづける人々の物語、と読むことができるわけだ。

 しかし、仮にサトラレたちがこの「思考のダダ漏れ」をオフにする能力を持っていたとしたらどうだろう。すべてがダダ漏れになってしまうから困るのであって、選択して発信することができるなら、あえて自分の思考を公開しようと考えるものも出てくるのではないか。いわば「サトラレ」ならぬ「サトラセ」である。

 いま起こっていることは究極的にはそれに近いように思う。内藤みかは著書『ソーシャルライフログ 電子小説家の自分さらし』で、かつて自分がやってきたような「自分さらし」を多くの人があたりまえにするようになった時代を驚きを込めて語っている。



ソーシャルライフログ 電子小説家の自分さらし

ソーシャルライフログ 電子小説家の自分さらし

 相当にSF的なヴィジョンになるが、いつか将来、完全電脳化して常時ネットに繋がるようになった人々は、自分の五感や思考をそのままにネットに公開するようになるかもしれない。そうしてそういったひとに無数の人々がチェックインして、その視点で世界を見るようになるかもしれない。テレビアニメ版『攻殻機動隊』で、無数の人々が英雄クゼの視点に接続し、その革命思想に感染したように。



攻殻機動隊 S.A.C. ぴあ (ぴあMOOK)

攻殻機動隊 S.A.C. ぴあ (ぴあMOOK)

 これは、ある意味で究極のプライバシー革命だ。もちろん、それはありえるとしても、何十年後かの未来の話である。が、現代のSNSはそういった可能性の萌芽ともいえるかもしれないということ。

 いずれ、SNSはさらに進化し、もっと様々な情報をシェアできるようになる。これは間違いないだろう。そうなったとき、人々はどこまで「自分さらし」をすることを選ぶか――興味は尽きないところではある。とりあえずぼくも本名公開するかな。