金子みすゞの世界のあざやかさに目眩がする。




 同人誌のなかに一篇、詩を引用させてもらっている関係で、金子みすゞの詩をいくつか、読んだ。すばらしい。まあ、いまでは例のACのCMでむやみと有名になった「こだまでしょうか」で彼女をしらないひとはいないと思うが、その全体像を把握しているひとはそう多くないのではないだろうか。

 ぼくにしても、正直、これほどの詩人だとは思っていなかった。いくつかしっていた詩にしても、ほかの詩とあわせて味わうことで、より深く理解できるようになった気がする。

 みすゞの世界を形づくるものは、深い深い「愛」であり、「共感」である。それもひとだけではなく、あらゆる塵のような生きもの、無生物にまで及ぶ、深い、深すぎる「愛」と「共感」。


 上の雪
 さむかろな。
 つめたい月がさしていて。

 下の雪
 重かろな。
 何百人ものせていて。

 中の雪
 さみしかろな。
 空も地面(じべた)もみえないで。

 雪という無生物にまで想像力を働かせ、「さむかろな。重かろな。さみしかろな」と「共感」してしまう、この異常に鋭敏な感受性が、金子の作品のなんともいえない魅力である。そこにはある種、スピリチュアルな迫力がある。


 青いお空の底ふかく、
 海の小石のそのように、
 夜がくるまで沈んでる、
 昼のお星は眼にみえぬ。
   見えぬけれどもあるんだよ、
   見えぬものでもあるんだよ。

 散ってすがれたたんぽぽの、
 瓦のすきに、だァまって、
 夜のくるまでかくれてる、
 つよいその根は眼にみえぬ。
   見えぬけれどもあるんだよ、
   見えぬものでもあるんだよ。

 「見えぬものでもあるんだよ」と語る金子のことばは、正しい意味での宗教性を帯びている。このつよい感受性、この烈しい共感のこころが、みすゞの詩に鋭い印象を与えている。

 これ以上ないほどシンプルな言葉で書かれているにもかかわらず、彼女の詩は心に刺さる。それだけの鋭さを秘めている。みすゞの言葉はやがてひとの域を超えた「愛」や「共感」にまでひろがってゆく。


 私は好きになりたいな、
 何でもかんでもみいんな。

 葱も、トマトも、おさかなも、
 残らず好きになりたいな。

 うちのおかずは、みいんな、
 母さまがおつくりなったもの。

 私は好きになりたいな、
 誰でもかれでもみいんな。

 お医者さんでも、烏でも、
 残らず好きになりたいな。

 世界のものはみィんな、
 神さまがおつくりなったもの。

 しかし、「誰でもかれでもみいんな」好きになることはひとには不可能なことだ。あるひとを好きになればべつのだれかのことは嫌いになる。それが人間のあたりまえの心性なのだから。

 「誰でもかれでもみいんな」好きになるということは「神の愛」であり、それは、ひとには不可能なことなのだ。おそらくはみすゞじしん、そのことをよくわかっていたに違いない。しかし、それでもなお、彼女は彼女の「道」を往く。


 このみちのさきには、
 大きな森があろうよ。
 ひとりぼっちの榎よ、
 このみちをゆこうよ。

 このみちのさきには、
 大きな海があろうよ。
 はす池のかえろよ、
 このみちをゆこうよ。

 このみちのさきには、
 大きな都があろうよ。
 さびしそうな案山子よ、
 このみちをゆこうよ。

 このみちのさきには、
 なにかなにかあろうよ。
 みんなでみんなで行こうよ、
 このみちをゆこうよ。

 この世の森羅万象ことごとくとともに往く「道」。みすゞはその言葉に何を託していたのだろうか。

 ほかにまたとない玲瓏な言葉でいまもわたしたちを楽しませてくれる詩人金子みすゞは、若くして自殺し、果てた。わたしには、その死は、不可能なゆめを見てひとり険しい「道」を歩んだ、その代償であるかのように思えてならない。

 芥川賞作家の玄侑宗久は、みすゞの作風に、「大乗仏教の呪縛」を視る。そうして「宮沢賢治には明らかにこの呪縛があった」という。うなずける意見である。ひとはまず自利に努めなくてはならない。利他を行えるようになるのはそれからだ。

 しかし――そうして自利に務めるうちに、いつのまにかそれが目的となってしまうことはないだろうか。ほんとうはもう十分に持っているのに、まだ足りない、まだまだ足りない、と信じはじめることもあるのではないだろうか。

 おそらくはみすゞや賢治のきわだって潔癖なたましいは、その妥協、その堕落が許せなかったに違いない。だからこそ、かれらの詩や童話は、上辺の「正しさ」を超えて、ひとのこころに切々と響くのである。

 「すべての存在に愛を」という、「不可能な夢」はまさに不可能であるが故にこれ以上なく美しい。しかし、その道をゆくものは、やがてその不可能さにつまずき、つまずく己を責め、さらにつまずき、苦しみぬくことになる。

 ぼくはその苦しみをいかにも貴いと思うのだ。たしかにはやく見切りをつけ、救えるものだけを救うことのほうが、ひとの道としていかにも正しいに違いない。しかし、その正しさ、その妥協を捨てたところに、「神の道」はある。それはひとには往けぬものであるとしても。


 わたしが両手をひろげても、
 お空はちっともとべないが、
 とべる小鳥はわたしのように、
 地面(じべた)をはやくは走れない。
 わたしがからだをゆすっても、
 きれいな音はでないけど、
 あの鳴るすずはわたしのように
 たくさんのうたは知らないよ。

 すずと、小鳥と、それからわたし、
 みんなちがって、みんないい。

 この世の万象に注ぐ、哀しいほどに深い「愛」。

 金子みすゞは、その、うつしよに生きるひとにはあまりに高すぎる理想とともに、地上を、去った。享年26歳。花は、そのまさにさかりに散ったのである。そのうちに秘められていたであろうかがやかしい言葉の数々とともに。

 詩だけがあとにのこされた。世にもうつくしい詩だけが。詩人はいつもそうやって死ぬ。詩人は死しても、詩は不死をたもち、悠久を生きる。あるいは、詩人のたましいもまた、詩とともに、不滅であるのかもしれぬ。

 ぼくはそう思うのだ。

 蛇足。

 こんどの同人誌はこういう話が中心になっているので、この手の話がお好きな方はぜひ読んでみてください。ただアニメや漫画の評論が読みたいだけの方には退屈かもしれませんが、前回とはひとあじ違う内容になっております。おもしろいと思います。宣伝。宣伝。