[]映画『もしドラ』のおもしろさを簡単に説明するよ。





 そういうわけで、映画『もしも高校野球のマネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を観てきた。ぼくは時々、ゴーストの囁きに従って全く感受性にヒットしない映画を見に行くことがあるのだが、これなどはその典型と言えるだろう。

 で、どうだったのかというと――おもしろかった! それはまあ、映画としての客観的な出来はいまひとつかもしれないが、ぼくは好きだ。

 まあ、たしかにツッコミどころは多々あるんだけれど、それより何よりテーマがぼくがこの頃考えているテーマに合致していたことに驚かされた。ぼくは原作を読んでいないので原作との異同にかんしては何ともいえないのだが、これは原作通りなんでしょうかね。

 そうだとしても原作を読んでみようとは思わないが、ま、ちょっと感心したことはたしか。しかし、これはネタバレなしでは何も話せないので、以下、全面的なネタバレありということでよろしく。

 オーケー?

 さて、この映画のあらすじについてはタイトルでほぼわかるわけですが、主人公のみなみが病気の友人の夕紀に成り代わって野球部の女子マネージャーに就任するところから始まる。で、書店で偶然に手にとったドラッカーを手本にして野球部を改革していくわけです。

 と、こう来たらふつうの女の子がドラッカーを読むことによって劇的に野球部を改革するカタルシスで魅せる映画だとだれでも思うし、じっさい全体の4分の3くらいはそんな調子で進む。

 ダメ運動部(やプロ)が何かをきっかけに生まれ変わったように快進撃!という映画はいろいろあるけれど、そこにドラッカーを持ってきた作品なんだな、と。しかしまあ、そういう映画として見るなら御世辞にも説得力があるとはいえない。

 そういう作品として見るなら、『おおきく振りかぶって』とか『GIANT KILLING』などの漫画、アニメのほうがよほどよくできているし、おもしろい。ところがこれ、たぶんそういう映画ではないのですね。いや、そういう要素が中軸になっていることは事実なのだけれど、それでもそこがテーマではないと思う。

 この映画、映画の終盤で、劇的な事件が起こります。元マネージャーの夕紀は病が悪化して死んでしまうのです。ここでみなみは、いままで自分がやってきたことは全部無意味だった!と叫ぶ。

 ここまでみなみは「自分には責任がある」「大切なのは結果」だと明言している。それは夕紀の病気との「戦い」を無意味だと断ずることにほかならない。みなみは自分の発言を悔やまずにはいられない。そして、けっきょく夕紀を甲子園につれていくことができなかった自分に絶望するのだ。

 みなみは小学生の頃、自分自身がプロ野球をめざしていた。しかし、日本には女子プロ野球が存在しないという現実をまえに、夢をあきらめてしまっている。

 それでも彼女は夕紀のためにマネージャーとして「真摯に」「ひたむきに」野球部管理に乗り出したのだが、このとき、ふたたび挫折したのである。そして、みなみは野球部から逃げ出してしまう。

 ここでぼくはわが最愛の名作『SWAN SONG』を思い出さずにはいられなかった。『SWAN SONG』でも主人公司が死にかけているとき、ヒロインの柚香が「死んでしまうなら何にもならないじゃないですか」とかれをかき口説くのですね。

 そこにあるものは、すべての「生」には「死」という結末が待ち受けている以上、すべての物事は無価値だ、というニヒリズムである。はたして「死」を超える価値はあるのか。そここそが、『もしドラ』のテーマだと思うのだ。

 しかし、現在、社会を支配しているのはその「過程」が問題なんじゃない、「結果」が大切だ、という結果主義である。いくら「過程」で努力していても、「結果」を出せなければ評価されない。これは当然だ。

 しかし、結果主義を突き詰めていくと「それでは、結果を出せない人間には価値がないのか?」という問題に突き当たる。「価値がないのだ」といってしまうこともできるかもしれないが、それでは、夕紀の「戦い」は無意味だったことになる。

 そもそも、たとえば重度障害を負っていて、生まれつき「結果」を出すことが限りなくむずかしいひとはどうなってしまうのだろうか? かれらの人生には意味がないのだろうか?

 もちろん、意味がない、といってしまうこともできる。そういう思想がいわゆる「優生学」である。優生学においては生涯をもった人々は「不幸な人々」と断ずられ、その「生」を否定された。

 結局、この物語では野球部は甲子園に出場するのだが、みなみのニヒリズムは、本質的にはそのことによって解決したわけではないと思うんだよね。野球部が甲子園に行ったところで、みなみの絶望が解消されたわけではない。

 最近、ぼくは「ひとを結果主義で見ること」の問題点について考える。たとえば、ヒューマンエンハンスメント(人間強化)の問題がある。人間を遺伝子操作や機械化によって強化、改造することの是非をめぐる問題である。

 ヒューマンエンハンスメントを肯定する論者は、それを否定するべき根拠は何もない、と主張する。たしかに、少し考えてみただけでも、知能は高いほうがいいし、運動能力も優れていたほうがいいに決まっている、ということはいえそうに思う。

 しかし、本当にそうだろうか。そもそもわたしたちはなぜ、より強くなりたかったり、賢くなりたかったりするのだろう。そう考えていくと、ここでも結果主義が顔を出すことに気づく。もちろん、より良い結果を出すためにこそ、より高い能力が必要になるのだ。結果主義を採るかぎり、ひとは「結果」によるヒエラルキーで分類されることになってしまう。

 もちろん、社会には結果主義が絶対的に必要である。たとえば、肉体的障碍者にしても、介助されるときは、より能力の高い介助者を必要とするだろう。「がんばってくれたのだから自分を落としてもかまわない」などといえるひとはいないに違いない。

 しかし、その「結果の差」は「人間そのもの」の価値の差なのか? ここでわたしは『ジョジョの奇妙な冒険』第五部でアバッキオの同僚の警官が言っていたことを思い出す。


「私は『結果』だけを求めてはいない 『結果』だけを求めていると人は近道をしたがるものだ・・・ 近道した時 真実を見失うかもしれない やる気もしたいに失せていく 大切なのは『真実に向かおうとする意思』だと思っている 向かおうとする意思さえあれば  たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?  向かっているわけだからな・・・・・・ 違うかい?」

 「結果」だけを求める限り、最後には「死」が待っていてすべてがご破算になるという事実に打ち勝つことはできないのではないだろうか? そして結果だけを求めることは「真実を見失う」ことに繋がる。

 『もしドラ』は大切なのは「結果」なのか、それとも「過程」なのかと問いかけてくる映画なのである。それは、結局、甲子園に行くこともプロになることもできなかったみなみの努力は無駄だったのか、ということにも繋がる。

 おそらく、「過程」だけですべてを肯定することは不可能だろう。社会とは「がんばったけれどダメでした」というような言い訳が通用するような甘い場所ではない。しかし、わたしたちはその「正しさ」に疲れてもいるのではないだろうか? いまこそ「過程」の価値が問われるべき時なのではないだろうか?

 『スターウォーズ』におけるヨーダのようなメンターであるドラッカーに導かれ、みなみが発見した価値とは「真摯さ」であった。

 勝利よりもなお価値があるものがあるとすれば、それはある物事にどこまでも真摯に、ひたむきにコミットすることではないか? 『もしドラ』からぼくはそんな教訓を学んだ。おもしろい映画だったと思う。

 やはり映画は見てみるまでわからない。そして、初めから楽しむ気もなく見てもおもしろいものではない。映画とは、それこそ真摯に主体的にコミットしてこそ、初めて輝くものなのだ。

 自ら心を閉ざしてしまったら、どんな映画もおもしろくない。それがぼくが映画『もしドラ』から得た教訓だ。あらかじめ冷笑的な態度で自分を鎧ったりするものじゃない、とつくづく思う。それは安全かもしれないが、退屈な態度に違いない。