[]テーマ読書はなぜ楽しいのか。




 次の同人誌の締め切りまでおよそ一ヶ月というところまで来ました。もうタイムリミットぎりぎりというところなのですが、まだ資料を読みあさっています。やばい。楽しい。止まらない。

 以前は、数々の作家が「資料集めは楽しい。それを作品に仕上げることが大変」というのも聴いても、そんなの何が楽しいんだよ、資料を読みあさるなんて大変なだけじゃん、と思っていましたが、ようやく理解できました。これは楽しい!

 何が楽しいって、自分の設定したテーマに沿って読書できるということが楽しいですね。ある本の資料を集めるということは、必然的に何かしらテーマに沿った読書をすることになるわけですが、ペトロニウスさんがよくいうように、読書というものはテーマを設定して読むとよく頭に入る。

 学校で習うことがなかなか頭に入らないのは、ひとが設定したテーマに沿って学ばなければならないからなのですが、資料集めはちょうどその逆。同じ本を読んでも、とてもよく理解できます。

 今回、ぼくが本を書くにあたって参考にしている資料は、文学、哲学はもちろん、生命倫理学、宗教学、スポーツ学、看護学、障害学、ロボット工学など、多岐に渡ります。これらをひとつひとつ読んでいったらたぶん、まるで理解できなかったと思う。

 でも、自分で設定したテーマ(「戦場感覚」)に照らし合わせながら読むと、ふしぎと理解できるんですね。まあ、もちろん理解できるとはいっても、よくいってもせいぜい半可通というところでしょうが、でもぼくの目的にとってはそれで十分です。べつに専門家になろうと思っているわけじゃないんだから。

 あきらかに10年遅いのですが、大学にいた頃にはまるで沸かなかった向学心がいまになってふしぎと沸きあがってくるのを感じます。まあ、大学にいた頃はろくに勉強しなかったですからね……。

 いまになって学問のおもしろさに目ざめた、などとは口が裂けてもいえませんが、でも、各分野のおもしろいところをつまみ食いしながら本の森を渉猟することは楽しいものです。ときに文系理系の垣根を超え、またときには作家の名前で選びながら、ひたすらに文字を追うこの歓び。

 本というものは一冊の本がかならず一冊以上の本につながっているものなので、読めば読むほどさらに読むべき本が増えていく、という現象が起こります。

 たとえば今回、本格ミステリの大家エラリイ・クイーンについて書こうと思っているのですが、そうすると当然、クイーンにオマージュを捧げた作家、法月綸太郎を無視することはできません。で、法月について考えてみると、そういえばかれは『ふたたび赤い悪夢』のなかでスピノザについてふれていたな、と思い出す。

 そしてスピノザについて書かれた本を探すと、スピノザマルキ・ド・サドを絡めて書いた本が見つかる。サドの翻訳といえば澁澤龍彦。そうして澁澤龍彦といえば三島由紀夫の友達。三島由紀夫といえば――と、延々と連鎖していくのですね。

 じっさいには、たとえば法月について調べているときに瀬名秀明との対談を発見し、そこからロボット工学についての本を探したり、サドといえばマゾッホも無視するわけにはいかない、とSM小説について考えたり、と一冊の本、ひとつのテーマから無限に探索がひろがってゆきます。

 ぼくは英語もろくに読めない無学者なので、日本語の本に限られることになりますが、本当なら外国語の本にもリンクはつながっているはず。テーマを持って本を読むことは本当に楽しい。ぼくの人生にこれ以上の歓びはありません。