『アビシニアン』。






アビシニアン

アビシニアン

 読みはじめました。

 わずか200ページ強の小説なので本気で読もうと思えばすぐに読み終わるはずですが、ま、急いでもしかたがないので、あえてゆっくりと読み進めています。あの超絶傑作『13』でデビューしたあとの作品で、いまでは『沈黙』と合わせて文庫化されているわけですが(絶版だけど)、いやあ、素晴らしい。紙面から天才があふれまくり。

 『沈黙』も読みたいのだけれど、もう売っていないんだよなあ。Amazonで買うか、それとも図書館で借りるか、それくらいしか読む方法がない。困ったものです。あらすじを読んだだけでも傑作に違いないという気がするのですが。

 ぼくは小説が好き、というよりはやはり文章が好き、言葉が好きな人間なので、こういうオリジナルな文体を持った作家には惹かれます。読むことそのものが快楽であるような小説をこそ読みたいし、そういう作品こそ、小説、と呼ぶにふさわしいと感じる。

 ま、その一方で文体そのものはかぎりなく無味乾燥な『メルカトルかく語りき』なども読んでいるわけですが……。麻耶雄嵩のことあとで語ろう。このひとはこのひとで凄すぎる。

 それにしても、『13』やこの作品のようなきちがいじみた傑作が絶版のまま入手困難な状況に置かれているという現状はどうしたものなのか。そもそも古川日出男自身、一部では熱烈どころではない賛辞を受けながらも有名作家というわけでもないわけだからなあ。何しろ濃密すぎる文体を持つ作家なので、一般受けしないことはわかるけれど。

 こういういかにも小説らしい小説を読んでいると、ああ、ぼくはやはり言葉が好きなのだなあ、と思いますね。書くことも読むこともぼくにとっては同じこと。ひたすらに言葉の豊穣に呑み込まれてゆく、そのある種音楽的なカタルシスがたまらなく好きなのです。

 それは決して理性的な快感などではなく、むしろ超論理的な法楽であるといっていいでしょう。文体とは、つまり、論理を超えてひとを説得するための作法です。