[]ぼくたちの平和ボケを誇ろう。





 この成熟した後期資本制社会のリベラリズムが行きついた価値が真っ白な薄い社会に、それに合わせて、経済的な未来の成長が期待できない「いつまでもいま居る自分の世界から抜けられない絶望」が重なる。そして、その影響を受けるのは、ストックではなくフローによって経済を回すことを選んでいた日本社会全般に覆いかぶさってきます。もちろん、戦後70年以上の平和は、日本に凄まじい額の金融ストックをもたらしました。だから、この下り坂は「緩やか」であろうし、その余裕によって、先進国のフロントランナーたるさまざまな知的高付加価値の産業やビジネスモデルも生まれるでしょう。けれども、それは、アメリカにおけるアメリカンドリームのようなもので、かなりの確率でありうるものではあっても、ほとんどパンピーにとっては無縁の世界。ビル・ゲイツやジョブスが生まれる傍ら『ボウリングフォーコロンバイン』の世界が続くのです。

 そこで、それでも、どう生きますか?

 っていうのが、今後の、僕らの文学の物語の課題だと僕は思うんです。いやまー文学でもなんでもなくて、「僕らの社会の課題」ですね。

 ペトロニウスさんの最新記事、うん、わかりやすい。

 この記事はふたつの事実を示していると思います。すなわち、ぼくたちは世界史の最先端を往く社会で生きている、ということ。そうしてその社会は、長い長い時間をかけて衰亡の道を往く社会であるということ。

 このふたつの事実を前提として、ぼくも記事を書こうと思います。長文になりますが、よければ読んでください。どう書いても誤解されそうな内容だし、自分でも暴論ではないか、とも思うんだけれども、それでも書く。東日本大震災があらわにした日本人の「平和ボケ」の素晴らしさについて。

 さて、今回の地震での日本人の毅然とした冷静さは、世界を驚かせた、といわれています。じっさいに、各国の新聞に、今回の地震における日本人の姿勢を評価する論調の記事が載っている。


 大震災と巨大津波による二重の惨劇から立ち直るとき、日本の国際的な評価はいっそう高まるに違いない。日本という国の芯の強さに世界の称賛が向けられている。

 世界中のテレビには、がれきとなった家屋や車をあたかもおもちゃのように津波が押し流し、変わり果てた荒地に放心状態でさまよう被災者の姿が映し出されている。

 しかし、映像はもうひとつの側面も世界に伝えた。消息を絶った家族を探しながら、生活必需品が届くのを待ちながら、冷静さを失っていない日本人の姿だ。そこには略奪や暴動の素振りもない。

 半分空になった店の前でさえもきちんと並ぶ住民の姿に、英語圏のインターネット・コミュニティは、日本人は「冷静だ」と目を見張り、欧米諸国で同規模の地震が起きた場合にこうできるものだろうかという驚きが書き込まれている。


 未曾有(みぞう)の被害をもたらした東北地方の大地震を受け、テレビに映し出された被災者の冷静沈着な対応に世界中から称賛の声が相次いでいる。韓国でも自国の報道や市民意識と比較しつつ、「毅然(きぜん)としている」、「沈着な対応」などと称賛する声が多い。

 韓国メディアは「今回の地震で、日本国民が受けた悲しみや傷ははかり知れないほど。しかし、その悲しみを抑えようと努める姿に、『やっぱり日本だ』という言葉がおのずと出る」とし、「最悪な状況でも泣きわめきはしなかった」と伝えた。

 被害状況や被災地の様子について、確認された情報だけを伝え、遺体や遺族インタビューをあまり取り上げない報道の仕方にも称賛の声があがった。メディアは「不必要に刺激的な映像は、事態の収拾に役立たないという日本のマスコミの慣行は、最悪の惨事でも維持されていた」と論じた。

 また、じっさいに地震に遭遇した人間からも、同様の事実が指摘されています。


 すごいなと思うのは、食べ物を置いている店も含め、どの店も全く襲撃されないこと。カリフォルニアにいた頃、山火事があると繁華街の店のガラスが割られいきなり襲撃されていて驚いた。大ハリケーンが襲ったニューオリンズも、被害の後すぐに州兵が四辻でライフルを片手に警備を始めていた。

 大規模な災害が起っても全くそういうことが起らない日本は本当にミラクルだ。ホテルが配るおにぎりだって、最後にまだ余っていても誰も「2回目」を取りに行かない。(残ったおにぎりは、まだ食べていない人が他のフロアにいるだろうとホテルの人が配りにいった。)この24時間で何度も「この国はちょっとありえない」と思った。

(中略)

 最も伝えたいことは、この国の人のミラクルに近い行動様式です。ちきりんはこの24時間に「怒っている人」「怒鳴っている人」「文句を言っている人」に、ひとりも会わなかった。上野駅で我が儘を言う酔っぱらいのおじさんを一人見ただけ。この国は本当にミラクルです。

 もちろん、盗難や詐欺のような事件が全く起こっていないわけではないでしょう。マスメディアが報道していないところでは、いくらかの事件が起こっているに違いない。しかし、個人レベルでの行為はともかく、大きな集団的問題行動が起こっていないことはたしかです。

 日本に住んでいるのは日本人だけではないので、こういった事実を即、日本人礼賛につなげてしまうことは問題があるかもしれません。が、同時にこの日本列島に住んでいる人間の大半が日本人であることも事実なので、今回の地震において、日本人は非常に冷静かつ規範的に行動した、という程度のことはいえるでしょう。

 しかし――ここで思うのですが、あなたは、こういったことをばかげていると思いませんか? 既に秩序が崩壊しているんだから、奪っていけばいいじゃないですか。

 平時ならともかく、その判断が命を分けるかもしれないときに、なおも従順に列に並ぶという行為は、あえて誤解を招くかもしれない言葉を使うなら、「平和ボケ」しているとぼくは考えます。

 こういうとき、自分の生存を最高に優先する人間なら、きっと奪うことを考える。そういう人間は「平和ボケ」しているとはいえないでしょう。とにかく「生きのこること」を最優先に考えるならば、そういうひとは正しい。

 しかしです。そういうことって人間として正しい、あるいは美しいあり方なんでしょうか? 崩壊した社会で、おとなしく列に並んで自分の順番を待つ。それは、サバイバルのことだけを考えれば、あえていうなら愚策です。でも、それってなんてすごいことなんだろうと思うんですよね。

 すべてが崩れ去ってしまった社会でなお、ひとのものを奪うことを考えない人間、あたりまえのように列に並んで自分の順番を待つ人間、そういう人間性を戦後日本70年の平和と繁栄(「パックス・ジャポニカ」)は生み出した。それは途方もなく素晴らしいことなんじゃないか。ぼくはそう考えるのです。

 これは、どういう人間を良いと考えるか、という問題です。目端の利く人間、生存に貪欲な人間、常に自分の利益を第一に考える人間、そういう人間を理想に考えるなら、いまの日本人は「平和ボケ」しきっているといってもいいでしょう。

 石原慎太郎は、そんな日本人を嫌い、今回の地震を「天罰」といいました。「平和の毒」と石原はいいます。あまりにも長く緊張のない時代が続いたために、国家としての我欲が張り、社会が堕落してしまったのだと。

 しかし、その「堕落」の何と素晴らしいことか。こんなときですらひとのものを奪おうとしない我々は、なるほど、「生物」としては本能が壊れているかもしれない。が、「人間」としてはこれほど上等な存在もありえないのではないでしょうか。

 戦後すぐの日本人はこうではなかったでしょう。ひとの一生ほどにも及ぶ「終わりなき日常」こそが、こういう高貴な人間性を創り上げたのです。

 作家の村上龍は「ニューヨーク・タイムズ」に寄稿して、こういいました。


 私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と。

 今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。

 だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。

 しかし、あたりまえのことですが、大震災が起きて急に「富に心を奪われていた」人々がはっと覚醒し、良心を取り戻したわけではない。

 仮に今回の地震によって日本に「希望」が取り戻されたとするならば、それは現代日本人がもともときわめてモラルの高い人間であることが可視化された、という点にこそあるでしょう。

 そもそも「震災前」の日本社会が、当事者の実感とは逆に、きわめて犯罪率の少ない時代であったことはデータが実証しています。ぼくたちはそれがあたりまえになっていて気づきませんでしたが、戦後最も平和で豊かな、楽園のような時代を迎えていたのだと思います。

 一億人もの人々が飢えることも奪いあうこともなく暮らしていける「東のエデン」。それが震災前の日本だった。

 しかし、日本人は長い平和と繁栄を謳歌する一方で、その平和にコンプレックスを抱いていたのではないかとも思います。こんなに平穏な日常で良いのか。こんなに平和な状況が続けば、精神が堕落してしまうのではないか。そういう、「平和ボケ」という言葉に象徴される「平和コンプレックス」。

 そして、ひとを押しのけてでも、ひとのものを奪ってでも生きのころうとする精神のありようを、「ハングリー・スピリット」と呼ぶならば、多くの現代日本人にそういうものは限りなく希薄でしょう。

 そういう意味では日本人に昔のような「根性」はない。ですが、「ハングリー」であることは良いことなのでしょうか。そうして、飽食していることは悪いことなのでしょうか。ぼくはそうは思わないのですね。やはり「豊かさ」は素晴らしい。満ち足りていることは、限りなく美しい。

 また、今回、驚かされたのは、日本人が意外に世界で嫌われていなかった、ということです。「Pray for Japan(日本に祈りを)」の掛け声のもと、世界中から助けや義援金が集まっている。

 特に台湾のチャリティ番組ではなんと60億円を超えるお金が集まったといいます。なんでも、十数年前の台湾大地震のとき、日本が最も多くの義援金を出した、その恩返しだというのですが、とうの日本人はとっくにそんなことは忘れている。

 あの小さな島国で日本のためにこれほどの金額が集まるとは。本当に驚きでした。いったい、日本人は「世界の嫌われ者」ではなかったのか? そう、意外とそうでもないんですね。

 たしかに、個人レベルで日本人を軽蔑していたり、甘く見ていたりするひとは大勢いるでしょう。しかし、国民すべてが深刻に日本を憎悪しているような国はない、といっていいと思います。

 なぜか。単純なことです。それはこの70年間、日本が仮初めにも平和を保ち、世界のどの国とも干戈を交えてこなかったからです。

 戦後日本はしばしば右翼政治家が「こんな国では誇りをもてない」と嘆くような「弱腰」の外交を繰り広げてきたわけですが、まさにそうであるからこそ、そうして他国が危難にあうたび、お人好しにお金を出してきたからこそ、いま、世界のどの国も日本を深刻に憎悪してはいないという状況がある。

 かつて日本に侵略された韓国や中国や台湾の人々ですらも、日本の危機に同情し、義援金や救助隊を出してくれる。この事実はぼくを感動させます。

 お人好しの、平和ボケの日本人。しかし、それはなんと素晴らしいことであることか。いまや日本人は狼ではなく犬になったのかもしれない。野生の生存本能を忘れ、ひとを蹴落して生きのこる術も忘れ去ってしまったのかもしれない。が、それこそ真に高貴な人間というべきではないでしょうか。

 ペトロニウスさんが書くとおり、これからさき、日本人を「絶望」が待っている。となりの中国は猛烈な勢いで経済発展し、日本人は追いつかれ、追い抜かれるに違いない。日本人はさまざまなジャンルで「世界一」の称号を失っていく。

 しかし、それこそが豊かさの証なのです。多くのものを犠牲にしてがむしゃらに世界一を狙うようなあり方は、実は貧しい。80年代、日本は経済的に世界の頂点に立ち、膨大なモノがあふれる社会を体験しました。世界の芸術作品や外国の土地を買いあさり、ブランド品で身を飾りました。

 が、その頂点のなんとむなしかったことか。ぼくたちはもう、あんな愚かしい時代には戻れないし、戻りたいとも思わない。だからぼくたちの「平和ボケ」を誇りましょう。日本が世界に誇れるとしたら、それは「平和ボケ」以外にない。「平和ボケ」は素晴らしい!

 そして美しい。



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