安田訳の『エルリック』を愛する。




 マイケル・ムアコック『メルニボネの皇子』を少しばかり再読。いま流通している井辻朱美役の新訳版ではなく、安田均の旧訳訳のほう。

 安田さんはエルリックものの第一巻にあたるこの『メルニボネの皇子』を手掛けたあと、TRPGの仕事が忙しくなり、続刊の巻の翻訳を井辻朱美にゆずることになったらしいのですが、いやあ、この安田訳の美しさは絶品ですね。

 ぼくは井辻訳も大好きなのですが、しかしただ一巻に終わった安田訳の硬質な魅力も捨てがたい。否。それどころか、この安田訳の『エルリック』こそ、ぼくにとって一つの理想の作品とすらいえるでしょう。

 かぎりなく繊細かつ詩的でありながら華美に陥らず、エルリックという、あまりに複雑な内面を抱えたメランコリックな個性を巧みに捉えた名訳だと思う。

 新装版出版にあたりこの第一巻部分も井辻朱美が新たに訳しなおしたので、いまでは新たに読むひとも少ない文章なのだろうけれど、ぼくは何というかこうしみじみと好きです。

 少年時代に読んで惚れ込んだことからいくらか美化されている面もあるかもしれませんが、しかし、いま読んでもやはり美しい。


 野にさらされた頭蓋骨のごとき肌の色。肩の下まで垂れる長い髪も乳のように白い。細面の美しい顔にはつりあがった真紅の目がならび、暗く沈んだ眼差しを投げかけている。ゆったりとした黄色いガウンの袖口からは、これもまた骨のような色の細い手が二本つきだし、巨大なルビーをそのまま彫刻した玉座のひじかけに置かれている。

 何と端正で自然な日本語であることか。もとのムアコックの文章も秀逸なのだろうけれど、「野にさらされた頭蓋骨のごとき肌の色」「乳のように白い」「真紅の目」「黄色いガウン」「巨大なルビーをそのまま彫刻した玉座」といった目も綾な色彩描写はいまの目で見ても印象深い。この、徹底した非日常世界の構築こそ、『エルリック』の最高の魅力だよね。

 ムアコックは本国ではSF作家としてもそうとうの業績をのこしているらしいのだが、日本においてはあまり翻訳に恵まれず、主にこの『エルリック・サーガ』を初めとする『永遠の戦士』の物語でしられている。

 その『永遠の戦士』が、安田均井辻朱美の最高の日本語で訳されたことは、作家にとっても、読者にとっても幸福なことだったと思う。思えば、初めてエルリックが生み出されたから既に半世紀が経つわけだけれど、その内容はまるで古びていない。

 たとえば虚淵玄が『白貌の伝道師』で採用した〈法〉と〈混沌〉の覇権闘争といった世界構造もまた、もとをたどればムアコックの発明であるわけだ。

 考えてみればムアコックがメルニボネのエルリックを生み出してから既に半世紀が経つわけで、それだけの歳月を経てなお読まれているということは、それじたい名作の証明といえるでしょう。

 全く内容にふれませんでしたが、メルニボネの憂愁の貴公子エルリックのサーガ、ヒロイック・ファンタジーを愛好するひとにとっては必読の作品の一つです。いまからでも遅くないので、ファンタジーが好きな方は読まれてみては如何。