『風のゆくえ』再読。
何気なく手もとにあった『グイン・サーガ(23) 風のゆくえ』を読む、というか眺める。いままで何度読みかえしているかわからないくらいなので、さすがにいまさら新しい発見はないのだけれど、この頃の栗本薫は巧いですねえ。しみじみと、染みいるように巧い。
話の展開としては〈ケイロニア・サーガ〉第一部、仮面の恋の物語が終わる辺りで、ケイロニアからパロだの、クムだの、赤い街道だの、色々なところへ風とともに視点が移り変わってゆきます。
この視点移動がまた絶妙なのだけれど、しかしこの七巻あとの『サイロンの豹頭将軍』で『グイン・サーガ』の黄金時代は幕をとじるというのがぼくの考えなのですね。
そのあとも『ヤーンの日』、『ヤヌスの戦い』、『モンゴールの復活』と、まず秀抜といっていい巻がつづくのですが、そのあとの『愛の嵐』になると、何かが決定的に違う。もちろん、一気に質が落ちたりはしないのだけれど、しかし何かがたしかに失われて、そしてもう二度ともどってきません。
『グイン・サーガ』の黄金の時代、第17巻から第30巻を書いていた頃は、作家栗本薫にとってもその稀有な才能の一つの偉大な絶頂期にあたる時期だったといって良いでしょう。この時期に物した作品は、いずれも凄い。凄まじい。
『グイン・サーガ外伝』のなかでもひときわ光輝まばゆい傑作『十六歳の肖像』と『ヴァラキアの少年』もこの頃に書かれたもので、ここらへんはもうぼくの人生の聖典とすらいえます。
ルーン、ヴォダルーン、ガンダルーン――海風そよぐ港町ヴァラキア、その下町で育った天才少年ヨナが、のちに狂王と呼ばれるイシュトヴァーンと結ぶひと時の、しかし真実の友情! あまりに儚く、脆く、けれども純心な約束! 『ヴァラキアの少年』は未だにぼくのオールタイムベストかも。
本編と比べ相対的に短い外伝のプロットは、特別ケレンに富んでいるわけでなく、むしろ平凡とすらいえるかもしれません。しかし、じっさい冷ややかなほど端正な言葉で情感ゆたかに語られるとき、それはもう平凡とも、凡庸ともみえず、むしろ地上に無二の、かつてだれも書かなかった物語とすら思えるのです。
そのあとの『風の歌、星の船』や『マグノリアの海賊』も非常に優れた作品なのだけれど、しかしやはりもう何かが致命的にちがっている。
もちろん、どこを絶頂期とみるかは各人で異なるだろうから、それはぼくの私見に過ぎないのだけれど、でも、一作の小説としての洗練、完成が、この時期にひとつの頂点をみたことはほぼまちがいないのではないかと。
その頂点のあまりの高さがあったからこそ、のちの作品がいかにも迷走してみえるのかもしれない。しかしまあとにかく、作家亡きあと、『風のゆくえ』、『赤い街道の盗賊』、『パロのワルツ』、『白虹』、『光の公女』と続く一連の名作は永遠で、ぼくはくり返し読み耽っては、初めて読んだ少年の日の高揚を思いだそうとこころみるのです。
『グイン・サーガ』と、そして田中芳樹の『銀河英雄伝説』は、やはりぼくにとっては少年時代のともにある特別な作品で、いくら読み返しても色あせることがありません。
もちろん、いまの目でみればいくらでも粗が見あたるのですが、それが思い出を穢すかというと、そうはならないのですね。
世界的な指揮者としてしられる某氏が、本当の名演とはひとつふたつの失敗で崩れるものではない、たとえば指揮棒が飛んでいったとしてもそんなことは問題ではないんだ、というようなことを語っていた記憶があるのですが、たぶん、そういうものなのでしょう。
基本、言葉とは削るほどに鋭さをましてゆくもので、だから小説も長ければ長いほど良いとは決して思わないけれど、でも、本当に優れた作品の場合、いつまでも続いていってほしい、と思うこともまた人情。
『グイン・サーガ』は、一時、その子どもじみた夢を叶えてくれたかにみえた作品で、その意味でもぼくにとっては忘れられない名作です。
いつまでも果てしなく続くということ、いくら読みすすめてもなおさらに続きがあるということ、その慰撫は、物語を愛してやまないものならおそらくは誰もがしるところ。あの遥かな〈永遠〉にすこしでも近づきたいという人の子の想いが、『グイン・サーガ』を生んだに違いありません。
まあ、この作品については語って語り尽くせるものではないので、いつかまとまった量の原稿を電子書籍にでもして発表したいと思っているのですが、なかなか、むずかしくはあるのでしょうね。
宿題です。