『13』を読みながら――眩暈小説の可能性。






13 (角川文庫)

13 (角川文庫)

 あいかわらず古川日出男『13』を読み耽っている。昨日、一昨日と読みつづけてなお、まだ半分も読み終わっていないのだが、いまの時点で断言してしまおう。傑作である。個人的には、何年かに一冊出逢えるかどうか、という名作だと思う。

 なぜいままで読んでいなかったのか、と切歯扼腕する半面、これは気力体力が充実しているときにしか読めない作品だよな、とも思う。

 何しろ、たたみ掛けるように叩きつけられる言葉の密度が尋常ではない。読者は、読み進めるほどに物語を忘れ、自分が本を読んでいることすら忘れて、ただ、ひたすら眼前に幻視される魔境の、その悪夢さながらの光景に惑溺してゆくのではないか。

 ああ――紛れもない絶世の天才作家の、その魂の咆哮がここにある。くわしくは読み終えたとき改めて書くが、それにしても、この小説と出逢えて良かったと思う。続けて『沈黙』や『アビシニアン』も読んでみたいところ。

 ただ、これが万人に薦められる小説かというと、さすがに、そうは断言できない。こういう奇怪なシロモノを欣喜して読むのは一部の小説オタクだけだろうな、と感じてしまう。特に難解な内容というわけではないのだが、その文体を始め、すべてがあまりに過剰で、猥雑で、ふだん小説を読みなれないひとは受け付けない可能性の方が高いように思う。

 しかし、日ごろ読書を趣味とし、耽読を日常とする者にとっては、これは、最上の麻薬に等しい。無限とも思えるほど多彩な表現にひたすらに耽り、溺れる快楽――ああたまらない。

 後半、いくらか失速するという話は聴くが、ぼくとしては前半の官能的な文章だけでも、十分★★★★★を付けるに値すると思う。いやはや――日本には、何という作家がいることか。

 それにしても、この小説の魅力を、的確に伝えるためにはどうすればいいのだろうか。物語のあらすじをいくら詳細に書いても、『13』の、この「魔力」を伝えたことにはなるまい。『13』の魅力は、文中に「神」を降誕させようとするその蛮勇の迫力にある。

 ぼくとしては、この種の、筋立てすら忘れさせる眩暈(めまい)に充ちた作品群を、たとえば眩暈小説(げんうんしょうせつ)とでも名づけたいところだ。

 ひっきょう、『13』の魅力とは、その筋立てではなく、その目眩くヴィジョンにある。もうここまで来ると物語の内容などどうでも良いのだ。ただ、言葉に、その意味ではなく、響きとかたちに、溺れる、その恍惚こそがぼくを狂わせる。

 閑話休題。某所からの孫引きになるが、日本探偵小説史に冠絶する名作とされる小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に対し、江戸川乱歩がこんなことを書いているそうだ。


超論理と百科全書でないペタントリィによる『猟奇探異博物館』のごとき異様の作風、非合理主義、異常論理から生まれた難解性が『黒死館』の最大の魅力になっている。その鬼才的筋書、鬼才的情熱、鬼才的衒学を余すことなく傾倒したこの作品こそ、世界ベストテンに加えたいという声も決して無理ではない。私は声を大にして広く推理小説愛好家諸君に呼びかける。『黒死舘』を読まずして日本の推理小説を語ることはできない。その驚くべき魅力を満喫すべきである。読者はまず探偵小説として読み終わるであろう。しかし、この作品を抽象論理の一大交響楽として夥しいペタントリィを各種楽器の音色として、そのまま楽しむことは難しいかもしれない。するとこの作品のトリックは殆んど具体化に耐えないことが分ってきて失望を感じるかもしれない。だがここにはもう一つの読み方が残っている。そこには百、二百の探偵小説を組み立てるに足るほどの夥しい素材が転がっているのだ。だから再読の際、それらの一つ一つに立止り、自身の探偵小説を構築しながらその幻影を楽しむという風変わりな遊戯を試みる気にはなれないものだろうか。するとこの1冊の書物は優に数ヶ月の間、読者の退屈を救ってくれるに相違ないのである。大作『黒死館殺人事件』は論理の貴族主義者、抽象詩人の比類なき情熱と、驚嘆すべき博学と、凄愴なる気魂とを以って、世界の探偵文学史上にあらゆる流派を超越し一つの地位を要求することが出来るであろう。

 さすが乱歩、良いことを云う。そう、あのどうにも読みづらくてならない『黒死館』の楽しみ方とは、やはり「この作品を抽象論理の一大交響楽として夥しいペタントリィを各種楽器の音色として、そのまま楽しむ」ことに尽きるであろう。

 言語を意味から解放し、小説を物語から救出し、すべてを一つの荘厳かつ滑稽な音楽、またとない至上の交響楽として楽しむ。そういう楽しみ方ができる小説は貴重で、だから絶賛に値する。

 それは必ずしも文章技巧の巧拙で決まるわけではない。何より重要なのは、やはり、そこに作家の魂が黒ぐろと込められているか、否か、その点なのだ。

 ぼくは物語もたいそう好きで、ふだんは物語の疾走をこそ味わい楽しむ読者なのだけれど、一方では激しく言葉に中毒してもいるので、時にはこういう物語の鎖を噛みちぎってしまったような、凶猛な小説も読んでみたいと思う。

 もっというなら、自分で眩暈がするような文章を書けたなら最高なのだけれど――道は遠い。険しい。でも、いつか、きっと、とそう執念深く思うのだ。